長島有里枝と私の記憶

長島有里枝

長島有里枝の印象は、ロックだった

私の家族では到底ありえないヌード写真が羨ましく映った。そんな彼女の家族像に憧れた。

彼女の存在を知ったのは雑誌『STUDIO VOICE』であったよう記憶する。

『CUTiE』に連載されていた岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を読み、内田春菊を読み、思春期の私にあっけらかんとした裸と主体的なそれらが映り、殻をやぶれない私にこんなもんだよと語ってきた。パーフリ狂なメンヘラちゃんを描いた岡崎京子は、そんな私を知っているのではないかとさえ思った。

その後、長島有里枝が現れるのだが奇抜な印象を受けつつも、自分の中にも宿っている家族とはなんだろう、私とはなんだろうと問うようなまなざしの写真が印象的だった。

HIROMIXがアイドルみたいな勢いで登場し(いや登場させられ?)、ガーリーフォト特集やおしゃれ雑誌やらは彼女たちで賑わっていたような印象を持つ。高校時には写真部を立ち上げた女友達もいたほどだった。

たしかに輝かしく映っていた。私もなりたい、という憧れが生まれてくるのも当然であった。新潟の田舎町にいるせいかオシャレ欲求とかカッコいい欲求をたくさん所有していき、ここから早く抜け出したい願望も増し続け、実行するべく東京の大学に行くのだから。

とはいえどこか冷めた視点を持つ私は、東京に来たからといって自分が写真の中のロックな人間になるわけでもなく、オシャレな都会人になるわけでもなかった。と同時にガーリーフォトブームが去ったのか、私がそこから去ったのか、いつしか私の日常からは消えていた。

『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』

あれから二十数年経ち、スマホが普通になった今、なんでも検索できる便利な世の中になった。
洋楽雑誌の広告欄のレコード屋にびくびくしながら電話してレディオヘッドのEPを手に入れようとする私は、今思うとかわいくて仕方ない。(Nat recordかVINYLだったような)

田舎に戻ってきた私にとってインターネットの世界は高校生の頃の私のように思えてくる。

今も田舎に長島有里枝の本は置いてない。
ふと彼女の名前で検索すれば、写真ではない本を出していた。
『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』大福書林 2020年

まわりがどんなにもてはやそうとあやつろうと見下そうと、立ち向かう彼女はあの時受けたロックな印象そのものだった。

メディアに踊らされていた私を、誰かが定義する女性像に飲まれた私を、長島有里枝はまたしても破壊してくれた。説得力のある細やかな論拠と痛快な言い回しに圧倒する。彼女たちの心底にある確かにある塊みたいなものを共有できたような、たくさんの叫びが詰まっているのだ。他者がなんと評しようと彼女の作品ほど力が宿るものはないと賛し。

『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』長島有里枝
大福書林 (2020)


『背中の記憶』

掃除をしてて押し入れに眠っていた写真たちを見つけ、見入ってしまう時間のような、あの日の記憶が鮮明に甦り、過去の記憶を懐かしみながら眺める。その束の間の至福な時を丁寧にほどいて繋いでいくような、錯覚をみた作品だった。『背中の記憶』2009年 (講談社文庫 2015年)

私の中にもある、幼い頃の似たような経験を思い出す。母との記憶と重なり、笑みが溢れてくる「はやくとかわいい」、父の言葉に恐れ、逃れられない記憶として映る「夢」、私が弟へ抱いていた感情を思い出す「おとうと」。今となってはどんな記憶も私だけのかけがえのない宝物となって溢れ出る。

《ひたむきで迷惑で、逃れられない親子と呼ばれる関係の、息苦しいほどの愛も感じることができる。》
このエッセイを読むと彼女の写真の輝きが増す。
このエッセイを読むとやっぱり彼女が羨ましい。

『背中の記憶』長島有里枝
講談社文庫 (2015)



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