夏目漱石『草枕』オフィーリアと豊かさと

大学一年の頃、二つ年上の人と付き合った。彼は「漱石の中では『草枕』が一番いい」と言っていた。私の知らない小説をチョイスするあたり、漱石が・・・と言うあたりが、なんとなく癪にさわったけれど、そういうところがいいのかもしれないとも思った。『草枕』を読んだことのない私は彼がなぜそれをいいと思ったのか、気になって本屋に向かったことを思い出す。

どんなに面白い小説なんだろうかと早速読み始めたが、小難しいインテリ感と回りくどさを感じてしまい、まったく入り込めずに途中で本を閉じたままだった。冒頭の名言すらスルーするほど私は心ここにあらずであったのだ。

彼とは一年後に別れてしまう結末ではあったが、数年おきに彼が出てくるたびに、必ずや『草枕』が彼とセットとなって思い出す。その後「草枕」という単語がたびたび出てくれば、同時に彼を思い出してしまう始末。

これはいよいよもう一度読んでみなくてはならないのかと四半世紀も経ってから、初めて『草枕』を読んだ。すると、面白かったのである。冒頭から引き込まれるではないか!なぜ私は『草枕』が読めなかったのだろうと思いながら読み進める。

もはや彼が草枕

夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
海棠かいどうの露をふるふや物狂ものぐるい」の下にだれだか「海棠の露ふるふや朝烏あさがらす」とかいたものがある。(略)
次を見ると「花の影、女の影のおぼろかな」の下に「花の影女の影を重ねけり」とつけてある。「しょう一位女に化けて朧月」の下には「御曹司おんぞうし女に化けて朧月」とある。真似まねをした積りか、添削した気か、風流の交わりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、は思わず首を傾けた。

出典元:夏目漱石『草枕』新潮文庫 P,43

なんだろう、この感覚は。突然当時に引き戻されるような臨場感が現れる。あの日の彼とのやりとりを彷彿させるのか、絡み合っていてすごく面白い。

ええ、そうですよ、そういう画をあなたが見たいのを私は解っています。でも、そう簡単に見れるものではありません。そしてそれは、見ようと思わないと見れないし、見ようと思ってくれるうちがいいのであって、非人情なあなたには、過ぎてから見えてくるのでしょう。でもよくわかりません。それはあなたの世界ですから。だから癪にさわるのでしょう。でもそれでいいんじゃないですか。などと私も作中に参加したくなる。

『草枕』の感想を彼と話してみたかった。「余」にとってはオフィーリアは那美で、あの日の彼にとって私は那美であったのだろうか…。いや違う。なんだか既に彼と話しているような不思議なやりとりをしている。もはや私にとってあの日の彼が『草枕』である。



『草枕』は漱石の趣味がわかって面白いのではあるが、途中、中弛む。それは恐らく圧倒的な言語量と私が漢詩を読めないからだろう。漢詩が読めないことにしばしば凹む。ああ、”旧かな”や”漢詩”らが私に染み付いていれば、もっと情景が浮かぶのに…。

であるが故に中怠むのだが、でもその中弛みが良かったりもする。これといって目的もないけれど、ここにまだこのままいたいという旅先のあの心地いい怠さ、旅行が終わって現実に戻された時のあの感覚にも似ているのだ。自然同様、到底及ばぬ豊かさがそこにあり、それほど豊かであった、と読後に思う。

ラファエル前派主義 ミレイのオフィーリア

年譜によると漱石は1900年(明治33年)33歳の時、2年間渡英する。その際にシェイクスピア研究家宅へ通う。『ハムレット』からミレイの『オフィーリア』に至るとすると、おのずとミレイの背景を知るに至ると思う。

John Everett Millais ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96年)
Ophelia (オフィーリア)』(1851-1852年)
カンヴァス油彩 76.2×111.8 ロンドン、テート・ギャラリー

ミレイはラファエル前派主義というグループの主導的人物の一人。当時19歳でD.G.ロセッティ(20歳)らと結成したというだけで驚いてしまうが、ミレイは22、23歳時に『オフィーリア』を描いたこともまた驚愕。しかもこのラファエル前派主義の目的は、W.M.ロセッティ(D.G.ロセッティの弟)の要約によれば、

1. 表現に値する純正なアイデアをもつこと
2. そうしたアイデアを表現するすべを知るために、自然を注意深く研究すること
3. 因襲的なものや自己顕示的なもの、また空で覚えたようなものを除外して、過去の芸術であれ直截で真摯で真心のこもったものには、共感を惜しまないこと
4. そして何よりも必要なことは、本当にすぐれた絵画や彫刻を制作すること

文献出典元:『世界美術大全集 第21巻』小学館(1993)「ラファエル前派の画家たち」谷田博幸

彼らはこうした「自然に忠実たれ」という主張を裏づける批評的なよりどころをすでに気鋭の美術評論家ジョン・ラスキン(1819-1900年)の『近代画家論』第1巻(1843年)の中で見出していた。というのも、ラスキンはそのターナーしょうともいうべき第1巻の末尾で「諸君はできる限り真摯な心をもって自然に近づかねばならない。そして自然の意味を洞察し、自然の教えを学ぶには、いかにすれば最善かということ以外の概念を払いのけて、安心して自然とともに歩めばよいのである。そして何ものも拒絶することなく、何ものも選別することなく、また何ものも軽蔑することなく、すべてが正しく善いことを信じ、常に真実のうちに喜びを見出すべきである。」(略)ラファエル前派の画家たちは彼の言葉を文字通り受け取った。

文献出典元:『世界美術大全集 第21巻』小学館(1993)「ラファエル前派の画家たち」谷田博幸

《シェイクスピアはラファエル前派の画家たちにとって常に偉大なインスピレーションの源であった》彼らの芸術に対する情熱と素直さ、特にミレイの技量に魅せられる。

そうだとすれば描かれた50年後の『オフィーリア』を観た漱石は、彼らの思想と姿勢から相当な影響を受けただろう。落差のような”違い”を漱石は嗅ぎ取ったように思う。それは劣っているという感覚ではなく、オフィーリアの表情が示す、”憐れ”な世界が来ることをもか。

山路を登りながら、こう考えた。

那美にオフィーリアを重ねた「余」は、その”自然を注意深く研究すること”から圧倒的な自然の豊かさを、日本の原風景を精細で多彩な言葉で表現する。しかしながら西洋文化をそのまま持ってくるのではなく、日本において自らの使命として、日本の文学を見つめた漱石の文学と芸術と人に対する深い洞察を持って生かす。

 智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。(略)
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたつとい。

出典元:夏目漱石『草枕』新潮文庫 P,5


日露戦争を背景に、かたや画工として優雅に写りもし、かたや戦地へ向かう人もある。日本の原風景とは対照的に汽車の通る華やかな都、そして戦地はまるで違うだろう。胸がチクリとする。これを非人情と片付けてはいけない。いや、漱石はむしろそれを踏まえたのか。戦争を冷ややかに見つつその先に進む日本とは何か、豊かさとは何か、むしろそこではなかろうか。それが使命であればこそ、だからこそ束の間の命を描くのか。

しかしながら、この着地は私にはどうもしっくりこない。傍観する視点が、”憐れ”という美がそこに写ったとしても、それは幻想ではありませんか、とまた那美とのやりとりのように繰り返すのであった…。



夏目漱石『草枕』青空文庫
『世界美術大全集 西洋編21』小学館 1993

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