スーラの点描『グランド・ジャット島の日曜日の午後』反ユートピアの寓意


ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat)『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-1886年、キャンヴァスに油彩、201×300cm、シカゴ美術館


リンダ・ノックリンの《ある意味で反ユートピアなのではないかという思いにかられるようになった。》その一行を読んだ時、私は興奮した。

なぜなら私はスーラの絵を、点描、新印象派、としか記憶していなかったからである…。

この絵については明るくて優雅でいいねぇ、と映っていた。

しかし、この絵に描かれている人物たちと同じような日曜日を自分も送っていると気づいた時、めまいがした。

リンダ・ノックリン『絵画の政治学』ちくま学芸文庫(2021/12/13)


スーラの描く『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は、《描かれた自殺の風景のようなものだ。ただ、実行されないのは(たとえその時になっても)、決心がつかないからだけである。つまり、この「無為の楽しみ」に見られるのは、もし意識されているとしたなら、日曜日のユートピアに残されているものにおける全く非日曜日の意識なのである。》と、ドイツのマルクス主義者エルンスト・ブロッホの文章からノックリンの考察は始まっていく。

ブロッホの言う「無為の楽しみ」「非日曜日」の視点で『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を見ると、なんとも切ない気持ちが迫ってきた。

明るい色調の画面なのに画家のまなざしは暗く、その対比を感じ取ってしまうと自分の日常と重なってしまうのだった。


反ユートピア、無為の楽しみ

私は最近まで完全週休二日制で働いたことはなかった。

振り返れば小中高も土曜日に授業はあった。だから週休二日って、それだけでユートピアである。

日曜日が楽しみ、なんて感覚は幼い頃に感じるそれで、夜が近づけば時間割の平日が明日にはやってくる。

それは社会人(労働者)というものになってからもそうであって、休みの前日がじつのところ一番解放された気分になるものだ。

しかしながら、休みの日は「無為の楽しみ」と化してしまう。

文字通り何もせず休みたけれもすれば、平日と違う時間を過ごしたい気もする。

発散するため、逃避するため、あれもしたいしこれもしたい。心が休まる場所に行きたいし、知らない場所へ出かけたい。その感覚は毎週やってくる。

それは、スーラの描く『グランド・ジャット島の日曜日の午後』と同じだった。


スーラの描く『グランド・ジャット島の日曜日の午後』

グランド・ジャット島はパリ近郊にあるセーヌ川の島、というよりも中洲である。
水に囲まれたといえば確かに島であるが、グランド・ジャット島は海ではなく川である。
とはいえ、島へは歩いては行けない。
だからこそ、行ってみたくなるのが島の魅力でもあり、日常から脱することができる。

ブロッホがここで言う反ユートピア的な意味は、イコノグラフィーの問題だけではなく、主題、もしくは、画布に描かれた社会史の問題でもある。スーラの絵は、単に1880年代の新しい都市の現実を受動的に反映したものとしてのみ見られるべきでない。それは、当時の社会的階級や都市空間の区分における資本主義の急進的な修正に関連して生まれた疎外の、もっとも進んだ段階を映し出しているだけではないと考えられる。むしろ《グランド・ジャット》は、都市の現代的経験を表す視覚的コードの発明を通して、文化的意味を積極的に「つくり出すもの」として捉えられなければならない。

そこでは、この論文の題名「反ユートピアの寓意」にある言葉、「寓意」が重要となってくる。《グランド・ジャット》においては、作品の絵画的構造ーーー形態上の戦略ーーーを通して、反ユートピアが寓意されているのである。スーラの作品、そして《グランド・ジャット》が特異なのは、この点においてである。すべてのポスト印象派の画家の中で、現代的条件を描き留めたのは、スーラのみであった。

リンダ・ノックリン『絵画の政治学』ちくま学芸文庫 P.332-333

急進的な都市の状況を、そこで生活する人々を、冷静な視線で描いた『グランド・ジャット島の日曜日の午後』だった。

こんなにもスーラの絵に共感できるとは思ってもみなかった。

点描という表現は、めまいがするほどの執拗さで、淡々と筆を乗せていく作業でもあり、なんとも事務的であって、スーラ自身も途方にくれただろうとも思ってしまう。

途方にくれる作業は私の事務的な作業とも似ていて規則的な仕事であり、そして繰り返しの規則的な毎日なのである。


『アニエールの水浴』セーヌ川をはさんだ向こう側

ジョルジュ・スーラ 『アニエールの水浴』1884年、キャンヴァスに油彩、201 × 300 cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー


労働者になりたかったわけではない。

時間に、何かに支配された平日を送りたかったわけでもない。

どこか虚しい気持ちを抱えながら浮世立つ日々を送っていることは確かだ。

急速な工業化を象徴する煙突とその都市の中で働き、そのうちに寝転んで浮世離れの「無為の楽しみ」を過ごしたい。

『グランド・ジャット島の日曜日の午後』と対になっている『アニエールの水浴』は、セーヌ側をはさんで生活様式が異なっている。しかし同じような表情だ。

ユートピアと思っていた日曜日はユートピアではない。そんなの受け入れたくない。でも、やってくる日曜日は反ユートピアである。

唯一、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の中央に位置する少女が、違う方向へと向かって走っている。この場から逃げるように、ここではない場所へ走り去る姿は、希望という願望とほんの少しの勇気を与えてくれるようである。



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