フェリックス・ゴンザレス=トレス「Perfect Lovers」と恋人たちの時刻

映画『恋人たちの時刻』

青年期に観る映画は特別だ。何十年経っても忘れられないものになる。私にとってそのひとつが『恋人たちの時刻』(監督:澤井信一郎)であった。

たまたま観たそれはタイトルもストーリーも全く覚えていなかった。ただ、気持ちを吐露するように歌う主題歌(大貫妙子)と、野村宏伸が出演していたこと、無数にキスマークのついた跡だけが頭の片隅に残っていた。

『恋人たちの時刻』(C)KADOKAWA 1987


彼(野村宏伸)が惹かれた彼女(河合美智子)は、暗い影を持つミステリアスというか難解な存在。彼は彼女が気になり執着する。結果、結ばれたけれど錯覚みたいな徒労感と虚無な自分を感じて終わる。

改めて観るとその時の強烈な印象を超えることはなかった。ただ、なぜこの映画のかすかな記憶が自らの頭の中で再生産され続けていたことに興味を持った。

映画の中で、彼女は彫刻家(高橋悦史)のモデルとして登場する。「見られる」側のモデルと「見ている」側の彫刻家。それを「見る」鑑賞者つまり映画を観ている自分ないし彼がいる。三角関係が働く。

何を表現するかはモデルを「見ている」側の観念が働く。そのもの自体に重点を置きつつも、「見ている」側が所有している内面の意識が表象化してくる。

と、解釈が続いてしまいそうだが、時間が経って気づくこと、わかることっていっぱいあるよね、と感じた映画だった。久しぶりに観た『恋人たちの時刻』はそういう意味でも良かったのである、とても。

愛って何?と多感な青年期に経験する昂揚感とか喪失感は、この時期でしか訪れないような破壊力を持つ。張り詰めた感情は普遍的な難題でもあり、大なり小なり誰しも経験するであろう。であるが故、欠くことのできないテーマでもある。

が、そんなふうに昔の記憶を掘り起こしているうちに、Felix Gonzalez-Torres(フェリックス・ゴンザレス=トレス)の「”Untitled” (Perfect Lovers)」(パーフェクト・ラヴァーズ)の時計を連想したのであった。「時刻」と「時計」という安直な連想で恥ずかしくも思うのだが…仕方ない。連想してしまったのだから。

「Perfect Lovers」フェリックス・ゴンザレス=トレス

出典元:「美術手帖」Vol.47 No.700 美術出版社(1995)より


この作品、今観ると物凄く良く感じるのだ。あの記憶を呼び覚ます。コンセプトは非常にわかりやすく、おそらくほとんどの人が所有しているであろうそれを表象化させるための装置となる。

二つの時計は接しているが、時計は時間が経つと微妙にズレが生じていくものだ。タイトルは「Perfect Lovers(完璧なる恋人たち)」だが、「完璧ではない」とシンプルに解釈できる。電球も近づき過ぎれば破裂してしまう。


出典元:「美術手帖」Vol.47 No.700 美術出版社(1995)より

コンセプトが解ると、それぞれ個人的に所有する記憶を頭の中に投影する。爆発していく感情とか、すれ違っていく事実とか、壊れていく現実と虚無感と。ゴンザレス=トレスのように愛する人を亡くしてしまったらなおのこと、唯一無二の恋人は、代替えは利かない、と知る。

ポスト・コンセプチュアルの多様性

が、作品の時計自体は代替えが利くのである。代替え可能な既製品だからである。そして、この世界は代替えが利いてしまう。得ようと思えば代替品はあるのだから。人間も代替え可能な世界である。再生産でぶっ飛ばしてきた市場経済、資本主義について考える側面もある。だが、しかし、その既製品に意味を持たせ所有した自分は、その唯一自分が所有した既製品しか愛せないことに気づいたりもする。すなわち代替えは利かないのだ。この代替えが利かなくなった既製品をあらゆる人がそれぞれに所有する。などと繰り返し私に問いかけてくるのだった。

振り返ってみれば自分を形成してしまった物事は単純だ。映画や本や音楽の記憶が頭の片隅に残るように、私の感情や出来事もこれらと同じ箱に入っているかのように記憶されていく。詰まるところ私自体も既製品であるようだ。

そして、男と女というジェンダーという部分も重ねて重要である。『恋人たちの時刻』は、視点が主に男性性であり、幻想と化す女性を描いているが、唯一、大貫妙子の主題歌で中和され、バランスを保っているように思う。また、トレスは自ら同性愛者であることを公にしていたが、言うまでもなくこの世界は不条理である。そこに物申すのは途方に暮れてしまう。
ただ、二つの時計が同じ既製品であることに、ようやく男女が並んだかのように女である私は思うのだ。思いたい。

人々は多様でありながら、多様性を問う現代はそうではないことを意味し、複雑に絡み合っている。だからこそ、トレスは公的な場に作品を展示し、見る者がそれぞれに所有する個人的な記憶を呼び起こし、作品を通して繋がりを持たせる。私はこの作家のこの効果が好きである。

たった二つの接する時計から、いろんな思考を廻らせてしまうのは、トレスのジェンダーに関する関心と既製品から読み取れる市場経済、政治的な要素も含まれているからだろう。

「喜び」として浄化する

インタビューで作品の効果について、トレスは答えている。

それはすべて「喜び」ということ。(略)アートは見る人を惹き込まなくてはならない。僕は美を信じる。僕がマルクス主義者だとしても、美しさに鈍感だということにはならないからね。

「美術手帖」Vol.47 No.700 美術出版社(1995)P.162、163

また、今日の日本におけるパブリック・アートの先駆けでもある「ファーレ立川」ではトレスの作品が展示されている。

トレスのメッセージがある。

私の作品の本質は、刷り直し可能な紙や、代替のきくキャンディー、取り替え可能電球や、再刷可能な看板など、傷つきやすい素材や形態を使うことにより、多様性とはなにかを問うことで鍛えられるものです。(略)

例え作品が永遠に流動的であったとしても、所有の責任が生じることで、作品の長寿あるいは不死の可能性が用意されるのです。不死とは、不安定と変化を具現化するものです。(略)

”真性さの証明”について最近言われているように、作品のコピーが、一度に一か所以上の場所で展示されるという考えに私は多いなる喜びを見いだす者です。

作家のメッセージ/日本住宅公団(現:UR都市機構)「ミニ通信」より 

トレスが亡くなって25年たった今、日本や世界各地で作品がコピーされ展示されている。それはまるで名著のごとく印刷され続け、各地にメッセージを伝え続けているのだった。

と、つらつらトレスとその作品についていろいろ耽っていたのだが、もしかしてこのようにさまざまな事柄や思考を巡らすこと自体がトレスの意図だったんだ、と気づくのである。


■MoMA ニューヨーク近代美術館 “Untitled” (Perfect Lovers)
■Web版 美術手帖 《無題(角のフォーチュンクッキー)》1990/2020



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