先日、マイク・ケリーのことを書いた流れで、ソニックユースの『GOO』を久しぶりに聴いた。レイモンド・ペティボンのアートワーク。クールでポップな印象だが「ムーアズ殺人事件」の二人である。髪の光の当たり方が脳内ぐちゃぐちゃを表現しているよう。この年になって思うのだが、十代二十代の頃の自分もやっぱりぐちゃぐちゃしていた。
そういえば、十年近く前、某衣服店で『GOO』のTシャツが海賊版のような雰囲気で陳列されていた。ああ、なんて軽い商品へと化してしまったのだと思った。
大人のための絵本作家 エドワード・ゴーリー
取り憑かれたような筆致とリズム。言葉以上に語る絵は、言葉以上に虚しさを覚えるようで、なんだかとても心打たれる。
エドワード・ゴーリー(Edward Gorey)
1925年、シカゴ生まれ。1943-46年と陸軍の軍務に服した後は創作活動に打ち込んだ。
2000年、享年75歳。
『おぞましい二人』(1977年)
「ムーアズ殺人事件」(1965年)を題材とした、ゴーリー最大の問題作と言われる本書。
現実に起きた陰惨な出来事を、何とかして理解しようとしたのか、その呪縛から逃れようとしたのか、どちらであれ、とにかく、まずは正面から向かいあわぬことには理解も解放もありえないという思いで、事件を徹底的に再想像/創造しようとしているように思える。
引用元:エドワード・ゴーリー『おぞましい二人』河出書房新社 柴田元幸 訳「訳者あとがき」より
私はこの絵本を見て読んで、ゴーリーが二人の背景を懸命に理解しようとする息づかいを感じた。単なる興味本位ではなく、自分の残虐性を見るように、「どうして!?」という簡単に理解できない人の心理を、その背景を知ろうとし、共有性を見出すことで、人や社会を支える何かをあらわすことができるようにも思った。
ゴーリー自身も「どうしても書かずにはいられなかった」のはこの本だけだ、と本人も述べているように、世の中には見過ごせない出来事が溢れている。
『ギャシュリークラムのちびっ子たち』(1963年)
19世紀のイギリスでは、悪さをした子供が悲惨な目にあう、いわゆる”cautionary tales”(教訓譚)と呼ばれる、道徳的に前向きの姿勢を打ち出した詩や物語が多く書かれた。このアルファベット・ブックも枠組としてはそうした枠組を踏まえているわけだが、ゴーリーの話は教訓とも前向きの姿勢ともまったく無縁である。(略)とにかく悲惨な最期を迎える。
引用元:エドワード・ゴーリー『ギャシュリークラムのちびっ子たち』河出書房新社 柴田元幸 訳「訳者あとがき」より
「大人のための絵本作家」だけに、大人になった大人へ、去勢されても不安はなくならない。
ずしんと響いてくる。
自分の名前をアルファベット順でおっていけば、悲惨な私の物語が完成するようだ…。
でも、どこか私の心を浄化するような不思議な効果がある。
『金箔のコウモリ』(1966年)
バレエ好きで有名だったゴーリーのダイアナ・アダムズ(1929ー1993年)に捧げられた本書。私はバレエを詳しく知らないが、足音を全くたてない動きは、緊張感があらわれ、その動きは見入るものがある。
映画「ブラック・スワン」(2010年)とまでダークではないが、華やかに見える舞台とは対照的に侘しい日常が描かれているところが、なんとも暗くて良い。
コウモリや白鳥、飛び回る翼と、唐突にやってくる「死」。それは「生」の象徴にもなるが、暗い夜に活動するコウモリや、見えない水面下で足を漕ぐ白鳥のように、地味な苦心があってこそ際立つ。しかし、人はそこを見ない。
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