映画『ツィゴイネルワイゼン』と内田百閒、亀鳴くや

ツィゴイネルワイゼン
画像出典元:リトルモア鈴木清順監督 ”浪漫三部作”公式サイト

私の記憶にずっと残っている、映画『ツィゴイネルワイゼン』1980年 監督:鈴木清順
久しぶりに鑑賞してみた。やはり視覚的に凄いものがある。キツネにつままれたような妖しい世界。

海辺にあがった女の死体から赤い蟹。とうもろこしを貪り食う中砂なかさご
「やつら死体食ったな。だからあんなに赤く染まってやがったんだ」

青木繁の『海の幸』を思い起こさせる構図。


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「なんでも腐りかけが一番いいのさ」「骨が赤い。骸骨だよ骸骨。人間一番美しいのは余分な肉と皮を削ぎ落とした骨だと僕は思うんだ。」「造形なんか比べものにならない。」

サラサーテ作曲『ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)』

サラサーテ作曲の『ツィゴイネルワイゼン Zigeunerweisen (ドイツ語)』は「ジプシーの旋律」という意味を持つ。物憂げなヴァイオリンの彷徨う音色と、人間の滑稽な部分が現れる。

吹込みの時の手違いか何かで演奏の中途に話し声が這入っている。それはサラサーテの声に違いないと思われるので、レコードとしては出来そこないかも知れないが、そう云う意味で却って貴重なものと云われる。

内田百閒『百閒随筆Ⅱ』池内 紀 編  講談社文芸文庫P.67「サラサーテの盤」より


「サラサーテがしゃべっているんだよ。自ら演奏したもんなんだが、途中で何かしゃべったらしいんだな。」

ジプシーのようにさすらう中砂、まともでない狂った色男(原田芳雄)
いつも自由で身勝手な中砂を羨む、そしてその穴に潜り込んでしまった青地(藤田敏八)
薄暗い玄関の土間に立ち続ける小稲(大谷直子)
腐りかけの滴る水蜜桃を舐めるよう口にする周子(大楠道代)

まわりは皆、中砂に取り憑かれる。

切通しという境界

トンネル(切通し)をぬけた先は現実か夢想か。
あちら側から通るか、こちら側から通るか。
どちらの世界が現実か、こちらの世界が夢幻か。

『ツィゴイネルワイゼン』は「切通し」が生と死の境界となっている。
彷徨う不思議な世界に私も入り込む。

ところどころに散りばめられた隠喩の骨の赤。
赤い口紅、着物、鳥居、漆器、行燈、湿疹、あやとり。


「で、なんて言ってるんだサラサーテは」

「それが何度聞いてもわからん」


わたしはそれを探しているし
それが目的だから
それしか探さないし
それがどんどん見えてきて
それが現れる

自分が見たいものを見るならば
それにとらわれるしかない
探しているものは見つかるし
亡霊も出現する



内田百閒『サラサーテの盤』

内田百閒『百閒随筆Ⅱ』池内 紀 編 講談社文芸文庫

原作:内田百閒の『サラサーテの盤』がこれほど大胆に、かつ妖しくも美しく彩られている。

『サラサーテの盤』は実際のところ、ものすごく短い物語である。ほんの1秒か2秒の話し声に反応し膨らんでいき、夢幻の世界が現れる。”そうだよ。暗い所を風が吹いているんだよ”誰も気にしないような視点が極めて幽玄で、これまさに風が吹いているような。

同書『亀鳴くや』を読む。
そうだったのか、中砂は芥川龍之介がモデルだ。
そして内田百閒自身が青地だった。

まるで芥川の亡霊に取り憑かれた百閒が、サラサーテの途中でしゃべった言葉に翻弄されるように、芥川の振る舞いに魅了されていた。『亀鳴くや』は、死んでしまった芥川への愛情を感じる随筆である。

自殺の原因や理由がなんであれ、”余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。”とは、彼の死をあれこれ詮索せず、その死をただただ受けとめ、惜しむ以上に敬意が込められている。

亀鳴くや夢は淋しき池の縁。
亀鳴くや土手に赤松暮れ残り。

内田百閒『百閒随筆Ⅱ』池内 紀 編  講談社文芸文庫P.61「亀鳴くや」より

『冥途』の世界の三途の川を眺め、暮れ残り、”それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰って来た。” エンドは内田百閒『冥途』で終わる。

内田百閒『百閒随筆Ⅱ』講談社 (2002)
内田百閒『冥途』―内田百閒集成〈3〉筑摩書房 (2002)


スチール:荒木経惟
気づかなかったが納得の存在。

脚本:田中陽造
短編『サラサーテの盤』から内田百閒の世界観を取り込んだこの脚本の濃厚さ。


■画像出典元:リトルモア鈴木清順監督 ”浪漫三部作”公式サイト より




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