九鬼周造「いき」の構造、恋の趣向

「いき」の構造、ベルクソンの薔薇

九鬼周造の『「いき」の構造』をなんの予備知識もなく、読んでみたのだけれど、、、
これは男の求める女(!)、趣向ではないか!と思ってしまった。。。

私は「いき」を「閾値」のことか?と手に取ったので、期待はずれな展開になった。
いや、ある意味「閾」だったのかもしれない。

そりゃあああ、何もかまえず読み進めた私にとっては、「いき」の内包的構造にて、いきなり《「いき」の第一の微表は異性に対する「媚態」である。》とくれば面食う。
あ、そっちの話?!と、少々こけた。しかし、勘違い体制で臨む読書は、いい意味で裏切ってくれて面白かったりする。

九鬼周造『「いき」の構造 他二篇』 岩波文庫  (1979/9/17)


ではあるのだが、、、《「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。》
確かにそうです、ね。
「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは異性間での緊張から発せられる見解ではある。

「媚態」とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。(中略)媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫 p.23

※[措定] ある事物・事象を存在するものとして立てたり、その内容を抽出して固定する思考作用。

なんだか九鬼周造という名の知的な響きと相まって、異性間のやりとりのつかみどころのなさがあらわれてきた。。。

媚態が《運命に対する「諦め」》と結びつくならば、確かにまったく異性間の事実性を示しているし、「自律的遊戯」でもあるし、「媚態のための媚態」でもある、はい、確かに。

彼は重度のメンヘラ状態を経験したのではないかと思われる…。しかし、わからなくもない。恋とはそういうものだと思う。諦め、失い、無となって、次第に、余計に現れてくる。私にも思い当たる経験があるためか…。

ベルクソンは、薔薇のにおいを嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂があるのみである。

同書 p.18-19

確かにそうだなぁ、と思いました。私があの匂いを求めている、のよね。

こういった思考を論理的に把握しようとするところ、九鬼周造って面白いと思う。異性間のありのままのやりとりを、素直に、ストイックに捉える。ストイックというか執拗に。
この方、ものすごくロマンチックな人ではないでしょうか。

恋の趣向、平行線の間の媚態

つづいて「いき」の外延的構造である。

《「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」「派手」「渋味」などである。》ああ、今度はキャラクターの仕分けとくるのね、、、。いや、わかるよ、言いたいことは。
知的な雰囲気、チャラい感じ、ワイルドな大らかさ。います、私の目にもうつるそういった異性。

おそらくいつの時代でも似たような仕分け(?)を人それぞれしている。たしかに外延的構造では存在している。自分の中に「粋」の見解がある。

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫 p.49



《趣味はその場合その場合に何らかの主観的価値判断を伴っている》直六面体の形で表した価値の関係性の図は、囲まれた中に入るか否かはそれもまた、私の価値判断になってしまう。ので、自らの価値判断を埋め込むことを楽しむ、ことしかできない。「主観的価値判断」ですから、ね。

「いき」の自然的表現と芸術的表現。もはやこの方の、九鬼周造の趣向なんだけれど、非常にニッチな箇所に惹かれるのだろう。《すらりとした姿の女が横縞の着物を着たような場合、その横縞は特に「いき」である。しかし横縞そのものが縦縞より「いき」であるのでない。全体の基体において既に「いき」の特徴をもった人間が、横縞に背景を提供するときに初めて、横縞が特に「いき」となるのである。》
縞柄の平行線は、男女間の平行性でもあるようだ。
いや、そうなのだ。。。




恋をしている時、いつもの景色が輝いて見える。「いき」をみた者、感じた者は、みる景色が変わる。というか自ら変えて見ている。景色だけでなく、すべて。

自分が措定した対象は、おのずと自分に媚態をさらしているのである。それを受け取ってしまう私の嗅覚か触覚か、味覚か聴覚か視覚か、みたいな感覚は趣味である。(その時の自分によるけど、確かに趣味です)

外延的構造と内包的構造とは、自己を中心に否応にも構成されている。自らの思考回路にうまい具合にはまった現象は、私に媚態となって現れるし、惑わされ、驚き、美が現れてくる、のかもしれない。。。

「いき」は複雑です。その複雑に絡み合った、絡み合おうとするところに「いき」があるのかも、、、と思ったり。

うーーーーん。。。この複雑さを解こうとしている九鬼周造はなまめかしくもうつるのだが、実際に九鬼周造と対面するとなるならば、見られすぎるようで、ただ怖いと思ってしまう。。。
とはいえ、こういった男性、嫌いでない。
むしろ、興味をそそられる。なかなかいないキャラに思う。

情緒の系図 ーー歌を手引としてーー


いや、怖いなんて言ったけど、『情緒の系図』面白かったです。日本語の「韻」効果の「音」解釈は、歌に凝縮されているし、短い歌の中に凝縮する情緒の表現は、短いからこそ想像力が働いて面白い。

系図をもとにその考察を辿っていくと、可視化された情緒は全部つながっていることが解る。書き込んで、たどって、想起してみると、このひとつひとつの情緒を私は経験していることを知る。

実際はこれ以上に複雑に存在しているが、こうやって図で整理していくと自らの感情を整理することができる。また、歌とあわせることによって、その情緒の情景が鮮明となる。


万物は、有限な他者であって、かつまた有限な自己である。それがいわゆる「もののあはれ」である。「もののあわれ」とは、万物の有限性からおのずから湧いてくる自己内奥の哀調にほかならない。客観的感情の「憐み」と、主観的感情の「哀れ」とは、互に相規制している。「あはれ」の「あ」も「はれ」も共に感動詞であるが、「あ」と呼びかけ、「はれ」と呼びかけるのである。

同書 p.188


九鬼周造、私は結構好印象。色気がある。
今の時代「いき」は希少。「いき」を楽しみたい。

が、悲しいかな、日常で「いき」を感じることはほとんど、ない。
SNSの世界では虚偽の媚態、不特定多数への媚態ないし自分に向けての媚態となっている。

本書「序」に戻り、《わが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。》
日常に「いき」の 美意識が消えつつある。美意識ということばも、もはや聞かなくなっている。
『風流に関する一考察』の大胆さと繊細さは、今の時代、感じない。

ああ、「あ」「はれ」。
またこれも有限であるのかしら。




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